11月初め、筆者は2つのことにドキドキしていた。ひとつは米大統領選挙。マケイン・ペイリンという戦争肯定派であってはならない、という主張は幸い当たった。オバマ・バイデン政権による「Change」は決して平坦ではないが、過去8年間にブッシュ政権によって生じたひずみ・疲弊がこれ以上広がらない、と期待したい。
「私の正論」入選2点が発表された11月11日付産経新聞
もうひとつは「懸賞論文」。かの田母神論文のアパ・グループとの「出来レース」(?)とは違い、月例「私の正論」(産経新聞)である(優勝・入賞賞金も300万円と違い、10万円)。「日本はどんな国を目指すべきか」というテーマに、長年の「産経新聞派」である筆者には平素から考えてきた問題なので、すぐにインスピレーションが湧き、執筆に取りかかった。「信頼の国、魅力の民」と題して、一挙に2,000字の論文を書いた。
折しも、世界規模で発生した「金融危機」は「信用不安」であり、Credit、 Trust、Confidence、いずれも「信頼」という一語に凝縮される。(来年1月に誕生の)オバマ大統領の「Change」「Yes, We Can」というスローガンの根もまさにここにある。
そこでは、金権主義、拝金主義の神「マモン」からの呪文を解かねばならない。そしてもちろん、それを支える主人公は「人間」、「国民」だ。それが「魅力度」をますことによって、国としての「Soft Power」となる。それが目指すべき日本国の姿である。
月例懸賞論文、第408回というから6年以上続いてきたわけだが、その最終回ということであり、有終の美とばかりに自信を持って投函した。
いつ「入選」の報があるかと心待ちにしていたが、結局なんの連絡もなく、11月11日、産経新聞紙上で応募149編の中から「入選」2人の論文が発表された。
ひとつは、郷土愛教育から「よき国家」が生まれる(30歳の女性、秋田市、非常勤講師):
義務教育で郷土学を教えることを提案。それにより子供たちは関心を持ち、郷土出身者の言行を学ぶ。「そしてその郷土学から日本を、日本の人材を創っていきたい」と結ばれている。
もうひとつは、国の将来憂え、実行できる人材育成を(46歳の男性、塾講師):
大河ドラマ「篤姫」という「斬り合うシーンがほとんどない時代劇」。そこでは「日本の行く末を案じているストーリーは安心して楽しめる」と論が始まる。そして、結びは「(維新の志士たちのような)国の将来を憂え、自分で策を講じ、実行できる人材を数多く生み出すことこそが今の日本の進むべき道であると考える」とある。
ことの成り行きがあり、熟読した。お2人とも教育という現場にあっての主張で共感を覚える。「人材教育」の重要性はまさにその通り。
しかし、「どんな国を目指すべきか」という命題からするとあまりにも「ローカルな視点」ではないか、と一種の違和感を覚えた。「人材育成」を非常に重要な過程・手段として、さて、その総体としての「日本国」は国際的にみてもどんな国であるべきか、というのが与えられたテーマであったはずだ。
そうして、なんと「論文を審査して」という主催者・産経新聞の論説委員長のコメントの最後にこうあった。
「その半面、テロや紛争が絶えず、経済状況も日々激変する世界の荒波の中で日本はどう生きていけばよいのか。そんなダイナミックな視点からの作品は少なかった。やや残念である」。
まさにその通り。筆者がこのテーマを見た時、まるでインスピレーション的に書いたのは「ローカル視点」ではなく「このグローバル化の世界にあって、日本国がどうあるべきか」ということである。
ここに、落選拙稿を下記し、皆さまのご批判をいただきたい。「産経新聞とは肌が合わない大江健三郎氏の言葉を引用したのがいけなかったか」などと邪推をしているが、筆者の負け惜しみだ。
関連拙稿:
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NO「マケイン・ペイリンTicket」
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「イラク侵略満三年」―市民記者の主張
「日本はどんな国を目指すべきか」―「信頼の国、魅力の民」(懸賞論文応募落選作)
ビジネスマンとして、長年、中東イスラム圏、アメリカをはじめ世界の異文化の中を駈けてきた。ベイルート内戦、イラン・イラク戦争、マンハッタンWTCの爆破に続く九・一一テロ事件など、身近の出来事として修羅場をくぐりぬけてきた。この体感から、社会でのいとなみにおける最も重要な要素は、国際、国内を問わず、人間相互の「信頼」だという信念をもつに至った。「日本はどんな国を目指すべきか」という命題には、躊躇なく「信頼の国、魅力の民」と結論を先に挙げよう。
情報化が進み、フラット化しつつあるグローバルな世界。国境を越えての「約束ごと」は明文化する。ビジネス契約では「万一の場合」を疑心暗鬼で想定する性悪説が支配する。その、膨大な人的、知的、時間的コストは非生産的だ。他方、日本的な契約においては「不測の事態にあっては双方誠意をもって解決に努める」という一文に意味を持たせる。信頼感の社会性の相違である。
某年、アラビアの若き王族との会食の場で「皇室」に話題がいった。「天皇陛下のお名前は?」「皇太子殿下のお名前は?」、誰一人言えない。くだんの王子は「日本という大国において、トップの名前を国民が知らないということがありうるのか」と唖然としている。
天皇は継宮明仁(つぐのみや・あきひと)、皇太子は浩宮徳仁(ひろのみや・なるひと)という御名があまねく知られてるわけではない。これは、ゆめゆめ不敬ではなく敬愛であり、唯一無二という間違いようもない「無条件の信頼」の証左である、という説明に王子は「うらやましい」と絶句した。本来、わが日本は人間天皇を頂にいだき、安寧を享受する世界もうらやむ稀有の「信頼社会」なのだ。
「特定せずともわかる」というのは西側からみると「あいまい」文化ということになろう。「あいまいな日本の私」というノーベル賞受賞講演(1994年)を大江健三郎はジョージ・オーウエルの言葉を借り、「人間味あふれたHumane」、「まともなSane」、「きちんとしたComely」、「上品なDecent」な日本人、と結んだ。
それに先立つこと二十六年。川端康成はノーベル賞受賞講演を「美しい日本の私」と題し、雪月花を語った。司馬遼太郎は「アメリカ素描」の中で、日本婦人が両膝をつき、ふすまを両手で開けるしぐさを描写し、「不合理さこそ文化の発光物質ゆえ、美しく、安堵感をもたらす」とした。
司馬は、他方、「文明は普遍的なもの」としたが、米政治学者ハンチントン教授はイスラム敵視感も含め、文明を衝突するものとし、ブッシュ政権の中東武力政策を暗黙に正当化した。筆者は米軍のイラク侵攻開始直後の二〇〇三年三月二二日付け産経新聞上で、これを「異文化国家との勝利なき戦い」として、「文化を武力で変えることの難しさは歴史が示している」と論じ、「素晴らしいアメリカ。単純明快なアメリカ人気質。それが今回は裏目に出ている」とアピールした。今、事態の泥沼化は解決のメドもない。
文化とは人間の生活上の内面的、精神的なものであり(広辞苑)、先祖代々引き継がれ肌に刷り込まれ、変えようもない心の状態であり、その典型は宗教である。「日本には宗教があるのか」と問われた新渡戸稲造は「武士道」をあらわした。そこでは忠実を中心に主従のありかたを示しているが、「盲従」ではなく、個人と組織の「信頼」を基調としている。
「和して同ぜず」つまり組織における個の自立が武士道に厳然と存在する。聖徳太子の十七条の憲法(604年)第一条「和を以て貴しと為し、忤(さから)うこと無きを宗と為す」も愚民に盲従を強いるものではなく、意見の相違を認めた上で話し合えということだ。
武力を典型とするハード・パワーに対して、ヨセフ・ナイ教授のいう「ソフト・パワー」を検証すると、実に(国、社会、個人の)「魅力度」だとわかる。では、北京五輪の開会式でのマスゲームを「魅力」とするか?
万の民の一糸乱れぬ動きに「魅力の民」の姿はなく、実は「独裁者が歓喜する全体主義」という醜く、危険な所作である。世界第二の経済力を誇りながら存在感の薄い日本。もはや、盲従の時代ではない。来年早々、米国の新政権が発足する。民主党、共和党いずれであっても「同盟国」だからこそ、その勇み足に対して疑義を唱える勇気、国際の場で日本発という基準を打ち出せる逞しさをもちたい。
ところが、国の未来を支える次世代教育の惨状やいかに。 学力、技術力もさることながら、「徳目教育」と「言葉(日本語・英語)教育」が焦眉の急だ。前者にあっては昨今の俗悪TV番組やマモン(金権神)への盲従から護り、知力を育み、後者は知識の受容と発信の手段としての言語能力の育成である。
福沢諭吉の説く如く「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」。我々は愚民であってはならない。「信頼の国」は「魅力の民」の集合体なのだ。
(2008年9月29日 記)